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晶・樹のメル友交換日記
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From: "内田 樹"
To: "鈴木 晶"
Date: Wed, 22 Nov 2000 13:26:59 +0900
Subject: メル友交換日記・その1
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(つづき)

私は個人的な日記を書く習慣がありませんが、「読者の眼になって自分の日記をチェックする(検閲する、あるいは加筆訂正する、粉飾偽装する)」というプロセスが介在するウェブ日記は書くのが大好きです。
どうして「非公開を前提とした個人的な日記」を書くのはいやだけれど「公開を前提としたウェブ日記」を書くのは楽しいのでしょうか。
たぶん私の場合だと、「ほんとうのことを書いているはずの個人的な日記」の方が自分で読んでいて「嘘が眼につく」からでしょう。

前にも書いたことですけれど、サイバー・スペース上で「内田樹」と名乗っているのは私がサイバー・スペース用に作り上げたヴァーチャルなキャラクターです。
この「内田樹」氏は現実の私がしたり思ったり感じたりしていることのごく一部だけを選択的に経験し、その性格の「歪み」や「偏り」をことさら誇張した、フィクティシャスな「キャラ」でありまして、現実の内田樹とはかなり違った人物であります。

これはふつうの文学者がエッセイなどで「私は・・・」という一人称で身辺雑記を書いていることと同じように見えるかも知れませんが、ちょっと違います。
というのは、このヴァーチャルな「内田樹」は「独立した人格」として、サイバー・スペース上での知り合いたちとメールをやりとりしたり、ビジネス・トークをしたり、研究活動をしたりするからです。(身辺雑記を書くエッセイストの「私」もまたヴァーチャルであることに変わりはないのですが、この「紙の上の私」と読者はメールのやりとりをしたり、ビジネスをすることはできません。そういう意味では「内田樹」は、ヴァーチャル・「リアリティ」がきわめて高いキャラである、ということになります。)

ウェブ日記を書く作業が私にとって楽しい娯楽であるのは、ここで造型された「ヴァーチャルな内田樹」が現実の私よりずっと自由ででたらめな人物であり、そのキャラクターのフィルターを通して、「私の現実」を追体験すると、自分の索漠として散文的な生活が何となく愉快そうなものに思えてくる、という「日常の劇化」という効果があるからです。
おそらくその「日常の劇化」、あるいは「セルフ・パロディ」というワンクッションが入るせいで、「非公開の日記」を書くときよりも、私は自分の生活についてかえって嘘をつかずにすんでいるような気がします。

私の「負傷の弟子」の一人がいま鬱病で、深刻な不眠症を患っています。
そこで治癒法の一環として、少し前から、私のホームページに「不眠日記」というものを書いてもらっています。
私の考えでは、あらゆる心の病は「自分が自分でしかない」繋縛性と「自分が自分のように思えない」解離性のあいだをダッチロールする傾向にあるように思われます。

そこで、彼女には自分の症状を「日記」に書くことで、第二、第三の「私」を介在させ、「病んでいる自分」と「それを記述する自分」のあいだに適正な距離を確保することができると、症状が少しは寛解するのではないかと考えてお薦めしたわけです。

私は心理学や精神医学については素人ですから、これが医療的に正しいかどうか分かりません。でも、「不眠」とべたっと一体化することも、「不眠」を「病」と観念して、それと「戦う」ことも、いずれも「適切な距離の取り方」であるようには思えなかったのです。

「病んでいる私」を「私」が記述する、というエクリチュールのあり方が決して危険なものではないことは正岡子規の『病床六尺』が証明しているのではないか、というのが私の素人療法の根拠です。(鈴木さんは私よりもずっとこの分野についてはお詳しいので、私の判断が適切であったかどうか、ご教示頂ければ幸いです。)

子規が出たついでになりますが、夏目漱石は神経衰弱を治癒するために『坊ちゃん』を書いたという文学史的逸話があります。
漱石自身、自分のドミナントな人格を「赤シャツ」に、いちばん抑圧のきつかった人格を「坊ちゃん」に託したというふうにどこかで書いていたように思います。「抑圧された漱石」が「支配的な漱石」をはりたおすという文学的擬制によって漱石がある種の閉塞状態から回復したというのはおおいにありそうなことです。

「ウェブ日記」には、文学的創造ほどの力はないかも知れませんが、自分の中にわだかまっている複数の人格をいったん解離させ、それをもう一つ上位のレヴェルで再統合する、というプロセスについて言えば、ある種の文学的営為と構造的に通じるものがあるように思います。

と、なんだかいきなりややこしい話をふってすみません。
で、いきなり、まとめに入りますと、
(1)「ウェブ日記」のねらいはヴァーチャル・キャラクターの解離の効果にある。
(2)「メル友交換日記」というのは、「解離されたキャラクター」同士のコミュニケーションという、もう何がなんだか分からない領域に突入することである。
(3)「もう何がなんだか分からない」ことに私も鈴木さんもはげしく好心をそそられるタイプである。
(4)と言っているときの「私」とか「鈴木さん」とかは「本体」なのか「キャラ」なのか・・・それを誰が判定できましょう。

ということではないでしょうか。

「語られた言葉はその瞬間に現実性を獲得する」ということについては、文学研究者として鈴木さんは(安倍清明@岡野玲子とおなじくらいに)確信をもっているのではないかと私は思っております。

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内田 樹(うちだ・たつる)
http://www.geocities.co.jp/Berkeley/3949/
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